ブログの記事に、カテゴリーというものがあって、
この記事は何関連の記事ですよ、というのが分かりやすいようになっているのだけれど。
自分の日常を書いた記録を、このカテゴリーという中で分けていくと、
なんか思考回路が整理されると同時に、
自分って、こんなに簡単に区分け・整理されるんだな、とがっかりもする。
意外と単純な人間だ。
ブログの記事に、カテゴリーというものがあって、
この記事は何関連の記事ですよ、というのが分かりやすいようになっているのだけれど。
自分の日常を書いた記録を、このカテゴリーという中で分けていくと、
なんか思考回路が整理されると同時に、
自分って、こんなに簡単に区分け・整理されるんだな、とがっかりもする。
意外と単純な人間だ。
海外で仕事をしていてふと思うのは、
海外での仕事であっても、語学は仕事の絶対条件ではないな、ということ。
よく経験するのは、言葉で説明しようとしてもなかなかうまく表現できなくても、
数字や表を用いて説明すれば、言葉が無くても相手が理解できることが多い。
つまり、重要なのは、ロジカルな考え方。
正直言って、ロジカルな考え方さえあれば、語学がつたなくても外国人と通じ合える。
そうでないとすれば自分がロジカルではないか、相手がロジカルではないか、である。
では、ロジカルな考え方はどこで身につくのか、というのは難しいことだけれども、
これは本当にそれまでの人生をよく反映してくる。
「なぜ?」とか「どうしたらうまくいくか?」とかを数字やシンプルなモデルに置き換えて考えることを、
子供のうちから経験していないと、このようなことはできるようにはならない。
例えば、小学校の算数のドリルをただただやるのではなく、
1問目と2問目は何が違うのか、とか、この問題をもっと簡単に解く方法はないか、と考えてみたり、
漢字を覚えるにしても、偏と旁を意識したり、意味をつなげて覚えるようにする、といったように、
一つ一つのことに、沢山頭を使って解決していく、というクセが必要だ。
そうしているうちに、
見かけは難しいが処理としては簡単だ、とか、
簡単そうに見えて考えなければならないことはたくさんあるから面倒くさいぞ、
といった勘がきくようになってくる。
今の若い人たちには、そのような訓練をたくさん積んで大人になってもらいたい。
仕事しているとPDCAとかいう言葉聞きますよね。
Plan-Do-Check-Actionというやつです。知らない人はWikiってください。
今や経営管理の指標として、ISO9001とかにも採用されているらしいです。
ところで、これ、小中学校の理科で実験する時とかに、こういうことやらなかったですか。
Planとは実験計画を立てること。どのような実験をやるのか、きちんと計画を立てるべきですね。(小中学校でやるときは、すでに題材が決まっていることも多いですが。)
Doとは実験そのもの。やってみて、何かしらの結果を得ます。
Checkとはその実験の分析です。思った通りの結果を得られたのか、予想外のことが起きているのかの分析です。
Actionとは、実験の考察に当たる部分です。その結果や予想外の事実について深彫りして、もし次の実験があるならその予想外の部分の影響をどう取り除くかを考えたり、あるいは予想外の影響を加味して理論の方を調整するか考えたりすることです。
思うに、PDCAなんて大層な名前を付けていますが、
小学生や中学生のうちに、このPDCAの基本は学んでいるわけです。
それを偉そうにPDCAがなんちゃらとか言っている経営学の学者や経営陣はイケてないし、
もっとイケていないのは、そういうことができていないサラリーマンたちだ。
当然言うは易し、行うは難しというのはあるけれど、
言いたいのは、そもそもこの概念が備わっていない社会人は小学校からやりなおせ、ということ。
ほんと腹立たしいことが多いわあ。
先日、失敗体験を継承する、という話をして、
これは勉強についても言えることだな、と思ったので今日は勉強における失敗の話。
小学校の算数の勉強本で、古くから「ドラえもんシリーズ」というものがある。
僕も愛読していたこのドラえもんシリーズ、何が良いかと言うと、
算数の問題に対して、必ずのび太くんが小学生がよくやる間違いを実践してくれるのだ。
それを見たドラえもんが、それは間違いだよ、と伝えてくれる展開になっている。
つまり、問題の解き方だけでなく、
この問題が出たときにこういう風にすると間違いだよ、間違いやすいところはここだよ、
ということまでを一緒に教えてくれる内容になっているということ。
僕はこの「何が間違いかを知ること」が勉強におけるポイントだと思っていて、
どういう間違いをしがちか、というところをきちんと押さえておくと、
勉強も速く、しっかり学ぶことができると思います。
人生においても、勉強においても、失敗体験を継承するというのは大事なことだなと思うのです。
人は誰でも自分の成功体験をよりどころに生きてしまいます。
昔の成功体験を部下に押し付けて、部下が「そうじゃないんだよなあ」となるシーンはたくさんありますよね。
先日会社で、5月末で退職される方の講演があった。
人事が気を利かせて、最後の一言を講演と言う形にしたようだ。
その方は、これまでの中国での仕事の歩みを紹介していたのだが、
特徴的だったのは、その方が経験した大きな失敗を紹介していたと言うこと。
全体を通じて本当にいい講演だったし、勉強になるなと素直に感じられる内容だった。
成功体験は押しつけになるが、失敗体験は人生勉強になる。
僕自身も誰かに何かを教えるときには、失敗体験を中心に伝えていくようにするのがよいのかも、と思った。
こないだ、文系のおじさんに囲まれて、
「理系って何がいいの、答えが一つに決まるから?」
という、周りに文系が多い時に理系が聞かれる質問ランキング1位の質問を投げかけられた。
ちなみに、この質問は、
(文系はもっと複雑で、答えが一つじゃないんだよ!)みたいな意味が含まれることもある。
あるあるだよね~。
さて、今日はこの質問についてちょっと考えてみる。
まず「理系は答えが一つ」だというステレオタイプな意見について。
今の近代科学において、理系の人間で、理系は答えが一つだと思っている人なんて、
ほとんどいないのではないだろうか。
(むしろそうだったらどれだけ楽なことか、と思っているはずだ。)
計算の答えは一つに決まるだろうけれど、
現代数学の半分は抽象的な概念を数学の言葉で定義し、
その定義された世界でどのような性質が成り立つか、ということを考える学問だったりする。
問題が与えられて、はい答えがいくつです、という単純なものではない。
科学(物理や生物学、薬学など)といった学問では、
そもそも理論物理では確かに物理の真理を求める部分もあるだろうが、
現実の世界でそうも綺麗に成り立つものではない。
外的要因や誤差というファクターに悩まされながら、現代技術や研究に応用されていく。
医学や薬学などは、もっと生物と言う生身の存在に近いところでの学問だ。
つまり、答えが一つだから、という発想は、
理系=中学や高校で学ぶ数学のようなものをやる人、というイメージから脱却できていないということであって、
それこそ「答えを一つにしてしまっている(色眼鏡で見てしまっている)」ことの象徴的なやり取りだと思う。
文系こそ、一つの物事に一つの答えを求めたがっているのではないのか?
いろんな角度から学ぶこと、これができないと成長はない。
7年近く日記を書いていて、文体というものがどうしてこんなにも固定されているんだろうということをひしひしと感じる。
中にはこれまでの日記の文体というかテンションというか、そういうものを面白いと思ってくださっている方もいらっしゃるだろうし、それはありがたいことなんだけれども、じゃあこの文章は本当の僕を表しているんだろうか? と考えることがある。
答えはノーだと思っている。というか、わざとこういうテンションの、どちらかという自分の素顔をさらけださないような文体を使って、隠しながら表現しているんだと自己分析する。
そうやって7年間書き続けてきた(書いてない日もかなり多いけど)。
そうすると、狼少年じゃないけれど、いざというときに素の自分となって文章を書きたいとき、素の自分の文章が出てこなくなってしまうのだ。
これまでのような文体は嫌いじゃないけれど、もっと自由に自分を表現できるような文章をかける人間になりたい、と願って、今月はちょっとまじめ風な日記を書いてみたりします。
文字に埋もれたパーソナリティ、いまどこに。
社会人になって仕事やりだして、やっぱり仕事って戦いみたいなものだなぁ、とつくづく思うシーンに出会うことが多い。
一番単純には生きるためのお金を得るための戦いだし、業務の中でも自分達の仕事を認めてもらうための戦いだったり。新人の私にはもうちょっと先の話だけどやっぱり出世にも戦いがあるだろうし。時間との戦いだってある。
研修終わって3ヶ月、ようやく仕事に慣れてきたところだけど、正直言って仕事って楽しいけど、しんどい。
でも、こうやって仕事って戦いなんだと割り切ってしまうと、しんどいのは当たり前のことのようにも思える。
学生の時には「仕事って楽しくなくちゃダメだ」って思ってたし、今もそうなんだけど、それに加えて「辛いのは当たり前かも」と思い出している。ちょっとだけ大人になったかもしれない。これを、現実的になったともいう。
パンを焼く機械といえばトースター。朝はパン派だった我が家、子供の頃からトースターにパンを入れてつまみをひねるのが習慣になっていた。最近では電子レンジにオーブントースター機能が付いていて、普通のトースターを使う機会も減ってきているのかもしれない。
チン!と心地よい音と共にパンが焼き上がる。たまにそのまま放っておくと、焦げ焦げになったパンと遭遇して残念な気持ちになることもある。「焦げは癌の元」なんていいながらトーストの表面をちょっと削ったりして。でも、ちょっとだけその“お焦げ”がおいしく感じたりもする。
レンジになってしまうとツマミはもうなくなってしまうんだけど、昔ながらのツマミには、面白いことが書いてある。「5分以内の場合には、6分以上までひねってから戻してください」みたいなことが大抵書いてある。子供の頃から親しむあの不思議なしきたり。でも、あれって実は勉強になるんじゃないかな。
実を言うと僕にもちゃんとした理由はよく分からない。ネットで検索してみたけど確かな情報は得られなかった。生活に密着したどうでもいい情報は意外とネットに載らない傾向があるみたいだ。
それはさておき、つまみを少し行き過ぎたところにしてちょっと戻す、っていうのはああいうツマミを扱うときには当然のことで、ギアの噛み具合を調整するのに必要なことだ。アナログの腕時計を合わせるときも、最後は時計の針が進む向きに動かして終える、なんてことしますよね。5分以内という微調整にはこの指示通りの操作が欠かせないのだろう。
そんなことを子供心に勉強させるトースター、あれは偉大だ。電子レンジにとってかわられないように保護しないと。
今日はそんなことを考えていた。同じように実験中に機械のツマミをひねりながら。
雨降りだったので、徒歩で大学に行く。出発したときは小降りだったのに、着く頃には大雨だったりして。よくはいている靴は、雨に濡れるとひどく変色してしまうのが玉に瑕。あとは安いくせにデザインとかいいから気に入ってるんだけど。
そんな道すがらにカタツムリを見かけた。コンクリートの壁にくっついていた、そうくっついているというのがぴったりくる。昔だったら手にとってはがしてみたりするんだろうけど、さすがにそんなことはしなかった。でも、写真ぐらい撮ってくれば良かったかなぁ。
そういえば自転車で通うようになった高校、大学時代は、そんなカタツムリに目をやることもなくて、ただスピードだけを追いかけてた。だからカタツムリなんて見かけた記憶がない。
中学の時は徒歩通学だったからよく見かけた。ちょっと薄暗いしめった道を通ったりしていたから、よくそこにカタツムリがいた。でも最近はそういう道は危険だからと通らないだろうから、カタツムリを見る機会も少ないのかもしれない。
そういえばこの前バイト先の塾の生徒(小学生男子)が、カタツムリの歌を歌っていた。「角出せ槍出せ頭出せ」、不思議な歌詞だ。生徒に「カタツムリ触ったことある?」って聞いたら、「そんな汚いやん」って言われた。確かにそうかもしれないけど、一気に引っ込む角とか、面白いんだけどねぇ。